「レッセフェール(自由放任主義)」という思想は現代でも依然として強い影響力をもっている。個人的な自由、経済的な自由の双方を重視するリバタリアニズムはその最たるものだろう。主流派経済学はその理論が成立するための前提として、個人をホモエコノミカス(自己の経済利益を極大化させることを唯一の行動基準として行動する人間)として想定する。

この前提の反証を揃えたのが行動経済学というジャンルである。新古典派が定式化した自己の効用(財やサービスを消費することによって得ることができる主観的な満足)を最大化するために合理的に推論行動するとする経済主体の意思決定のモデルは、心理学的な研究によってこれら重要な誤りが明らかにされたのだ。

ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン、ハーバート・サイモン、リチャード・セイラーは経済プレイヤーである個人が様々なバイアスに侵されている”ホモサピエンス”であることを十分に証明した。数々の実験心理学的な観察を通じて明らかにしたところによると、人の日常の行動選択は、しばしば経済人仮説の想定するような合理性を示さず、むしろその基準に照らせば過誤・過失というほかない非合理性を示す。そこに一定の統計的な法則性を認められると彼らは主張した。人びとは、つねにいくつかのパータンに沿って同じような過誤・過失を繰り返している。人は単に自己利益の最大化に失敗する非合理的な存在であるだけではない。同じ過ちを避けがたく体系的に反復する存在とされたのである。

好ましいメカニズムあるいはマーケットを創るためには、政府のような存在の介入が必要になる。これがパターナリズム(温情主義)である。パターナリズムが完璧かというとそうではなく、この介入の過程で介入者には多大な権力が生じており、この権力を学者が想定するような崇高な理由のためだけに使えるヒトは稀である。彼らはこのときある意味ではホモエコノミカスなのだが、同時にメカニズムの参加者の利益を阻害しうるのだ。加えてメカニズムの参加者は必ずしも介入者が求めるルールに従わない。一部のはすっこい参加者はメカニズムに抜け穴があるかを丹念に探し、見つけたら自分だけでその蜜を楽しむか、共謀したほうが利得が増えるかを思案するだろう。パターナリストが設定したルールはうまく働かなくなる。

パターナリズムは制度にパラサイトするヒトを生み出してしまうケースがある。社会の中でグリープ間で利得の相反があり、それを是正するために温情主義をふるうのだが、この温情を不当に活用するグループが生まれる。このような強制やその強制力をめぐる癒着はリバタリアンから厳しく批判されているわけである。だからリバタリアンでは十分ではないし、パターナリズムでも十分ではない。

強制しない誘導

合理性と非合理性を兼ね備えた無数のヒューマンをアクターとする経済がリバタリアンとパターナリズムの双方を不完全なものにしている。セイラーと法学者のキャス・サンスティーンが提案したのは不合理性の逆用である。人を頻繁かつ反復的に誤らせる心理的機微(錯覚、バイアス、 ヒューリスティック)は、人の行動を強制なしに誘導するための梃子の役割を担うことになる。この梃子をうまく使うことを「ナッジ(Nudge)」と彼は読んだ。

「ナッジ」とは選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える「選択アーキテクト(choice architect)」の要素を指す。選択アーキテクトとは、意思決定に際し、きちんと選択可能なオプションを提示し、現状や多数説にこだわらず、冷静な判断をできるような情報を提供するのが、その仕事である。

サンスティーンとセイラーが度々強調することの一つは、そもそも行為環境の設計は不可避 ということである 。仮に現在の行為環境をそのままにして、その構築や操作を一切控えた 場合でも、現行の行為環境は必ず選択当事者の選択に影響を及ぼすだろう。その意味で"中立 的"な行為環境など存在しない。まったくの不作為すなわち自由放任の選択もまた、選択アーキ テクトにとってはパターナリスティックな干渉の一種である。したがって、パターナリズムそのものの是非はもはや真面目な議論の主題ではない。行為環境の人為的構築は不可避の前提であり、 ほんとうに望ましい環境構築の方法とその内容をこそ探求すべきなのである。

アムステルダムの小便器のハエは「ナッジ」の最も有名な成功例となった。1999年にアムステルダムのスキポール空港は経費削減のため、男子トイレに目を付けた。床の清掃費が高くついていたからだ。空港は小便器の内側に一匹のハエの絵が描いた。その結果、清掃費は8割も減少したのである。

このアプローチはすでに現代のあらゆる所で採用されている。行動科学を織り込んだショッピングモールや大型商業施設の設計、画面を追っていけば必要な動作を遂行できるモバイルアプリケーションのインターフェイス、人々の苛立ちを抑えるアンビエントミュージック…。かつての経済学から離れ、むしろ設計、エンジニアリングに近いアプローチである。そして、前述したような市場の万能性の仮定が覆された現代では、経済学のフロンティアは明らかに設計にある。「ユーザーのことをよく知り、彼らが喜ぶサービスを設計する」というインターネット企業のしていることこそベストプラクティスかもしれない。あなたが経済学に詳しいのならエンジニアリング、プロダクトマネジメントのスキルをつけて設計する能力を高めていくことをお薦めする。あなたが開発者ならその逆を追求することが重要だ。

ナッジの欠点

人が同じ過ちを避けがたく体系的に反復する存在だとすると、そこに働きかけて自分が必要とするすべてのことをさせる欲望が生じてくるだろう。最初ナッジの範疇で行われていたことが、やがてコントロールの範疇に移行するのは自然に考えられる。それは20世紀までの国家が利用した社会の諸領域に対する統制技術を拡充するものかもしれない。

相手に直接的に働きかけることなくコントロールが可能ならば、極端に想像するならばすべてが調和した世界を目指す地点にまで人間社会は飛躍するかもしれません。伊藤計劃の『ハーモニー』という小説、アニメを観てみるといいかのしれません。

あまりにも飛躍しすぎたようだ。とにかく、ナッジには使いようによって素晴らしい結果を生む力があり、各国政府で活用例が積み重ねられている。うまく設計された仕組みをホモ・サピエンスがその幸福追求のために活用することを勧めるためにナッジが使われることが望まれる。

Reference

Richard H. Thaler and Cass R. Sunstein ”Nudge”

Libertarian Paternalism Is Not an Oxymoron

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