アドテクの変遷 大手企業の独占的戦略が自由市場を打ち負かした経緯
アドテクノロジー市場ではGoogleとFacebookが独占的戦略が他の多数のスモールプレイヤーを押し出す結果となった。両者は、広告技術のエコシステムの要所を抑え、他社の参入可能性をなくした。
『サルたちの狂宴(Chaos Monkeys)』を読んでみた。本書では著者のアントニオ・ガルシア・マルティネスが2008年にウォール街からシリコンバレーに移り、2014年にFacebookを去るところまでが描かれている。マルティネスは広告テクノロジー(アドテク)のスタートアップからFacebookに転じ最後はTwitterに移る。特に2011年から2013年4月の間、マルティネスがFacebookでアドテクに携わる部分は面白い。アドテクの話は異様にマニアックだから一般読者向けの本書では余り詳しく書いてなかったけれど、ぼくにとってはスタートアップとアドテクについての面白い情報があり、一度で二度楽しい読書だった。
ぼくは前職時代の2015~17年にアドテクについて道なき道を進み、苦労しながら学習したという経緯がある。メディアの立場にいる私には詳しい人は口を閉ざし、そうでない人は頭の中ででっち上げた空想を話した。前者が全体の2%で残りが98%。ぼくは米系メディアでアメリカの動向を追っていたが、日本はアドテクという言葉だけが先行して、技術的には未発達な季節が続いていた。これがぼくのアドテクの学習コストを激しく引き上げたのだ。
『Chaos Monkeys』とぼくの記憶をつなぎ合わせると金融危機以降のアドテクのビジネス史が出来上がり、ある種の知識的興奮をもたらしてくれた。そしてぼくはあることに気がついた。Facebookの広告商品の変遷はインターネットエコノミーの変遷を物語ってしまう。どうしてもテクニカルな説明になるが、テック業界、メディア広告業界、起業家、投資家、今後周辺産業に就職、転職する人には貴重な情報になると思う。テクニカルな部分を読み飛ばしても、ネット広告の変遷を知ることには深い価値があるだろう。
ネット広告の歴史
ではここで、簡単にアドテクの物語を振り返ってみよう。1994年に世界初のバナー広告が生まれた。http://thefirstbannerad.com/ 当時の広告は交通広告と同じで「貼り付けるだけだった。ネット広告はウェブページを配信するサーバーとは別の「アドサーバー」を利用することで大きく進化した。たくさんのユーザーを集める面とそこに広告を供給するアドサーバーの二つの地点がビジネス上の要所だ、というかこれだけである。YahooやMicrosoftなどの多量のユーザーを抱える面を持つプレイヤーは、買収でアドサーバー機能を確保していった。
2000年代中盤から後半にアドサーバーのシェアをYahoo, Microsoft, Google, AOLを分け合った。Googleが2008年にNYのアドテク企業DoubleClickを買収し、同時に面においてYahooなどに優越し始めた。2008年までの金融危機はネット広告に大きな衝撃を与えた。ウォール街でソフトウェアエンジニアが失職し、ネット広告へと人材が移転し、スタートアップの創業と投資に火がついたのだ。ユーザーがウェブページをクリックして「アドサーバー」が広告を配信するまでの数百ミリセカンドでオークションを行うアイデアが構想された。この構想はウォール街のノウハウを応用する形でシステムの構築が目指され、アルゴリズミックトレーディングをそのまま広告取引に応用したものまで現れた。アドテクがバズワードになったのはこの頃からである。
アドテクの群雄割拠が続いたが、2007年にスティーブ・ジョブズが提案したスマートフォンが業界にインパクトを与えた。ユーザーは次第にモバイルを偏愛するようになり、そこではApp(和製英語でアプリ)を使うのを好むようになっていった。これはデスクトップのブラウザを主対象にしたいままでのアドテクが役立たずになり、アプリの中でのネイティブな広告が脚光を浴びるようになる。1人がたくさんのデジタルデバイスをもつためトラッキングが容易ではなくなり、クロスデバイスのユーザー識別能力をもつGoogleとFacebookに非常に優位な展開になったのだ。2017年には米国でデジタル広告収益がテレビ広告収益を追い抜き、94年のバナー広告の登場以来13年でデジタル広告は世界の中心になった。
その”世界の真ん中で独占を叫んでいる”のが、二者合計で市場の60%以上を占めるGoogleとFacebookである(“Duopoly”等と表現する)。
Duopolyに挑戦するかもしれなかったSnapchatはマーク・ザッカーバーグの非情なコピー戦略に完全に敗北した。もうひとりの挑戦者であるAmazonは、主にコマース周りの需要をものにしているが、サードパーティが行っていたリタゲーティング等を自陣に引き入れる程度のインパクト止まりだ。YahooとAOLというGoogleとFacebookに打ち負かされたかつての巨人たちは昨年Verizonの庇護のもとで合併したが、先行きが明るいとは思えない。
アドテクスタートアップは2016年から身売りをするようになり、主な買い手は租税回避目的で広告になんてけほども興味のない中国企業だったりする。2018年もアドテク企業で70件ほどのM&Aがあるようだが、この時期に身売りをしているのは「負け組の中の負け組」だろう。マルティネスは2011年に会社を売却して、大企業の一員になっている。大手広告代理店の息のかかったアドテクだけが生き残ってはいるが、社員は転職の機会を絶えず探っているような状況だろう。
オープン vs プロプライエタリ
さて次にマルティネスが手掛けていたFacebook Exchange(FBX)に目を凝らしてみると、ネット広告業界がどういう道をたどってきたのかがより立体的になる。
FBXは当時社内でCustom Audience(CA)と競り合っている。FBXとCAの関係は「オープン(開放的) vs プロプライエタリ(閉鎖的)」と表現できるはずだ。ソフトウェアをめぐるあらゆる競争の中で常に出てくる対立であり、一般的にはオープンなものが好ましいと言われている。最近、父親が悪口を言い過ぎたことが話題になったが、Linuxはその端的な例である。しかし、Apple、Microsoft、Oracleなどを見れば閉鎖的なものが大きな利益を生み出してきたのも事実である。
FBXは当時のアドテクの潮流に沿った仕組みと言えるだろう。当時のネット広告の主流はデスクトップ。広告主はそのデスクトップへの広告の表示を「real-time-bidding(RTB)」という超高速な入札で買い取ることができるのだ。FBXはFacebookが行うオークションに接続されていて、サードパーティのDSP(Demand Side Platform)にオープンになっており、Facebookも数あるDSPが代理するのと同じ1人の広告主の立場になる。サードパーティのDSPは独自のデータとFacebookのクッキーデータをマッチングすることで情報優位に立ち、Facebookの入札価格よりも高い価格をつけていたという。
マルティネスが手がけるFBXのアプローチは金融市場の仕組みをネット広告の世界に持ち込もうとすることだった。ウォール街ではアルゴリズミックトレーディングが当たり前になり、トレーダーが必要なくなりつつあるが、似たようなことを広告取引にももたらそうというアプローチだ。
このアプローチの優れている点は、当時外部にはDSP、SSP、サードパーティデータベンダーのようなエコシステムがすでに育っていたので、エコシステムとの相互運用性を高めれば、すぐさまビジネスを拡張できることだ。FBXを通じて労せずして多くの需要をオークションに参集することができるのでFacebookも潤う。
このアプローチの悪い点は、外部のDSPがFacebookよりも情報優位に立ち、在庫を買い漁る点だ。実際彼らは外部のデータ源とFacebookのデータをマッチングし情報優位を築いていた。彼らは通常の顧客やFacebook自身よりも高い入札額を出すことができたので、広告部門上層部はこの状況を好ましく思っていなかったようだ。著者の述懐によるとFacebook広告部門はアドテクに関して不案内で、2011年のマルティネスが入社したときFacebookの広告のCPMの低さに驚いたほどだという。おそらくFBXについても詳しく理解できなかった可能性がある。
これに対して、Custum Audience(CA)はFacebookが開発したプロプライエタリなプラットフォーム上で上記のデータのマッチング等をしてくださいという広告製品である。当時の段階ではプラットフォームの開発に2、3年かかる状態だということだったので、匿名化されたIDにFacebookのデータが紐付いているだけの状態だと推察される。つまり、FBXで入札に参加するDSPがさまざまなデータソースとマッチングをする前の状態であり、情報劣位である。
当時のCAの悪い点は、Facebookは大量のユーザーとその属性データと行動データを持つにもかかわらず、それ単体では広告主が好む重要な情報に当たらない点である。ここは長い話になるので後で触れるようにしよう。これに対して、外部のDSPはさまざまなデータソースを当たり、ユーザーがFacebookの内外でゴルフについて調べ回った形跡を突き止められば、彼にゴルフ用品の広告を打つ合理性は高まる。だから外のデータとシンクさせる必要があるのだが、それを実行するためのプロプライエタリな仕組みは開発途上だった(いまはもうできている)。
仮にできているとしてCAの利点を考えてみよう。それはFacebookがデータの独占権を手元においておけることであり、外部システムとの接続を自分が好む形に限定するので、あらゆることを手のひらの裏で転がすことができることだ。外部のプレイヤーがFacebookのデータを活用して利益をあげることを押さえつけることができる。加えて広告主や代理店が買い付けをCAで継続的に行うようになれば(大企業向けの高価な外部ツールを提供するSaaSや、独自のツールを駆使してバイイングを代行する業者がいる)、広告主の広告予算をロックインできるだろう。
当時Facebookが人的資産を投入していたのはCAだったようだ。そのCAを利用する営業にとっては重要顧客が、FBX経由で参入するDSPを使う広告主との入札で負け犬にされるのは余り楽しくないだろう。おそらく社内に組織的な軋轢があったことは想像に難くない。FacebookのセールスやオペレーションにとってはFBXは目の敵のような存在に違いないだろう。彼らがさまざまな顧客のもとを訪れ、通り一遍のセールスを繰り返す仕事の価値をばかにされたような形になってしまうし、彼らの仕事を奪う可能性があるからだ。これは「デジタルマーケティング」というバズワードの日本への紹介者のひとりとしての私が身をもって感じたことでもある。
ビジネスの観点でもCAには一日の長がある。広告は専売的に展開したほうが儲かりやすい事業だからだ(というかだいたいのもがそうだ)。繰り返すが当時のFacebookはスタートアップに比べアドテクに関して「何も知らない」同然だったそうだ。だとしたら、外部のプレイヤーにボロ負けしかねないFBXを肯定する理由はあまりない。マルティネスはFacebookがかつて在籍したゴールドマン・サックスと似ていると指摘している。それはイノベーションよりも情報の不均衡を維持して市場を独占することを優先したということだ。専売でありデータの独占である。
マルチデバイス識別
マルティネスの退職(2013年4月)の後、Facebookはモバイルアプリへの追い風を受けながら、アプリ広告に傾斜して広告売上を拡大した。ユーザーはモバイルアプリが好きになり、モバイルネイティブという広告形態が生まれ、これがモバイルで膨大なユーザー数を握るFacebookの金のなる木になる。
ユーザーは複数のデバイスを利用するようになり、デスクトップのブラウザに対して広告をサーブしていた既存プレイヤーにとってゲームが難しくなったが、Facebookはクロスデバイスのユーザー識別が可能だった。例えば、デスクトップ、ラップトップ、スマートフォン、タブレットの4つのデバイスを使うユーザーがいたとすると、既存プレイヤーは4つをバラバラに認識している。スマホとタブレットではアプリばかり使っているのでクッキーが利用できないので歯が立たない。データの視界はかなり悪い。しかし、Facebookは4つの利用者を一人として認識しており、行動履歴をひとつのIDに紐づけている。
このクロスデバイストラッキングをグローバルで展開できるのはGoogleとFacebookだけである。これらが広告市場において2強に対してデータ優位性をもたらすのは明らかだ。2強は「このデバイスは匿名###だ」と確信してターゲティングができる。これを「決定論的アプローチ」と呼ぶ。他方、それ以外の人たちは探偵小説のように、さまざまな不確実な情報から「たぶんそうなんだろうな」と推理しないといけない。これを「確率論的アプローチ」と呼ぶ。決定論的アプローチは確率論的アプローチに優越する。
こうなってしまえば、この情報優位性を広告商品をプロプライエタリに設計するのは自然なことである。Facebookは広告プラットフォームの外部の接続性を限定し、Walled Gardenの構築に邁進した。モバイルの城の外にはMicrosoftから買収したAtlasで挑んだが、アドテク人材を外部から雇用したにもかかわらず、城から突出した砦の用な感じで、ここはGoogleにこてんぱんにされた。
Google自体も専売とデータ独占の色合いを高めていただろう。検索広告は最高の専売商品であり依然として最も利益率の高いデジタル広告商品の地位を譲る気配がない。FBXが打倒を目指したGoogle DoubleClickも「フェアな金融市場の広告取引への適用」と言えるだろうか。Youtubeの広告在庫取引では外部のアドテクプレーヤーへの門戸は閉ざし、Facebookと同じ運用状態になり、YouTube自体の利用拡大と歩調を合わせてGoogleの収益の柱になろうとしている。
かくして、GoogleとFacebookが米広告収益の6割超を占め、なおかつ毎年の市場拡大分はすべて2強の元に転がり落ちるのがいまのネット広告のあり方だ。インターネット広告エコノミーの世界にはでかい城が2つありじわじわと拡張し続けている。城の外は北斗の拳状態で、安い広告費をめぐって有象無象が残酷な戦いを繰り広げているのだ。
自由な競争環境によって市場は拡大していくというのが教科書で語られるところだが、現実は独占に落ち着いた。インターネットメディアのガソリンである広告費が2強にコントロールされているいま、新しいメディアが登場するには広告以外の収益モデルをもたなければいけないことは明確である。
広告市場は「市場」として機能しない
ここまで読むと、アドテクはオープンで理想的な仕組みだったが、GoogleとFacebookの独占を優先する戦略に負けた、と認識する人もいるかも知れない。実のところはそれはまったくないと言っていいかもしれない。
ぼくはマルティネスに同情していると思う。金融について少し知っているのならば、アドテクの仕組みは金融取引のアナロジーとしてまあまあ楽しく感じられる。昔ながらの営業マンがマスゲームのように街に繰り出していって中身のない話をして広告を取引することよりも遥かに合理的であり、人間の趣味趣向にマッチした広告を届けられる可能性があるあろう。ただし、これは机上の話であり、現実のアドテクと広告業界は目先の利得を追う人間のさまざまな愚行にあふれているので、難しい部分があるのも確かだろう。
決定的な要因は広告市場は完全な「マーケット」にはならないことにある。広告在庫(Ad Inventory)は経済学で定義される「コモデティ」ではない。広告がスクリーンに表示されることをインプレッション(Impression) というのだが、ひとつひとつのインプレッションが個性的すぎるのだ。「人間いろいろ人生いろいろ」だけども、人がその広告を閲覧するタイミングたちを一緒くたにはできないようなのだ。そしてそもそも広告が見える位置に表示されていなかったり、ネットワークやらアドテクスタックやらの不備か奇妙な手心が働いたりして表示されていなかったりする。分析の対象とするスケールが大きければこのばらつきが気にならなくなるかというとそうでもないだろう。この広告閲覧の分析に関しては行動経済学、行動心理学のアプローチが少し盛り上がった。ネットサーフィンをしている間にあなたは広告に対して強い興味を覚えているだろうか。あなたが閲覧するページを決めるのはたまたまだろう。配信側は閲覧履歴などからそれが有意だと考えて広告をプッシュするが、下手をすると嫌悪感を抱いたりもする。ミクロに目を凝らしてみるとそれを広告在庫としてひとまとめにしていることに違和感を抱かざるを得ない状況だ。さくらんぼとバナナといちごをまとめて「これはすいかである」と言い張って取引している状況なのだ。
A社が保有するトヨタ株1000万株とB社が保有するトヨタ株1000万株を交換できる。これを経済学ではファンジビリティ(代替可能性)と呼ぶ。広告表示はファンジビリティがないので、それをひとまとめにして取引することが正しいのか怪しい。広告在庫を大きなプールに入れて広告取引をすると、自分はトヨタ株を買ったつもりなのに、二輪車メーカーの株を買ってしまっていたみたいなことが起きる。取引を機械に委託して超高速化していくとこのズレが、結果としてキャンペーンの低いパフォーマンスとして現れてしまう。市場参加者と投入されるばらばらの在庫が増えれば増えるほど混乱が増していく。結局はこの壊れたプールの仕組みに通暁した人が取引のおもりをしなければならない。オークションの胴元が本当にいろいろ手をこまねくことにもなる。プログラマティックで効率的な取引という名目は怪しくなるし、想定された”マーケット”としての機能が怪しくなるのだ。
アドテクの非効性
基本的にアドテクの商流はとても不透明なものである。 格好良く感じられる需要と供給を代理するエージェント間のミリセカンドのやり取りと、アドサーバーの高速な広告のサーブとは裏腹に取引がアドテクスタックの中に入った途端すべてが闇の中に落ちる。広告主が最初に金を出し、広告代理店が受け取り、アドテクを通じて、最後にパブリッシャに渡る。A が B に売る B が C に売るという伝言ゲーム的な流通経路であり、各々が自分のマージンをもとの広告費から引いていく。誰がどれほどのマージンをとったかは想像するしかない。
商流の開始地点である広告主から見た場合、これは不透明極まりない仕組みである。自分が投じた予算の何割が実効的な予算として機能したのか推測する術はない。プログラマティックバイイングはミリセックの速度で執行されていく。結果が奇妙なレポートととして、あるいはダッシュボード上の数値として返ってくる。近年、広告主のいらだちは広告効果の測定、広告の視認性、本当に表示されたかやその総数などを確認するための検証などに注がれた。恐ろしいことにこのためのコストは広告主とパブリッシャも負担するはめになっているのだ。広告主からみたとき広告代理店にお金を渡した瞬間からそのお金の様子はわからないのだ(アナログ広告でも同じ)。
商流の終わりの地点であるパブリッシャからはそれまでの取引の状況は全く伺いしれない。Supply Side Platform(SSP)というソフトウェア等が彼らの取引を代理しているが、彼らはアドテクという名の濃霧の中から現れ「霧の中での取引はこの通りだ」と注げるのだけなのだ。パブリッシャはアドサーバーを用意しないといけないが、これを米国のような広い国で整備するのは骨が折れるし、アドサーバーには独特のノウハウが存在するので、元々新聞や雑誌を売っていた人たちには南海ホークスだ(難解ということだ)。したがってアドサーバーベンダーを利用することになるが、ここはGoogleがシェアの7~8割を握っている。
パブリッシャはいつもババを引かせるアドテクに猜疑心を抱いているため、ディフェンシブなウォーターフォールという設定をする。一定数の重要な在庫は営業が手売りするために常によけておく。そして程度の悪いレムナントと呼ばれる在庫をオープンな取引に流すのだ。アパレルブランドが郊外のショッピングセンターで低人気商品を安売り処分するように。
アドサーバーは在庫に高い価格をつける可能性がある需要から順番に個別の取引を繰り返す。まず最大手Aさんに買いませんかとお伺いをたて、Aさんのお気に召さない場合は準大手Bさん、という具合である。買い手がなかなかつかない場合は広告のインプレッションとページロードが取引の完了を待つために引っ張られ、間に合わなければそこに広告が表示されない。
Aさんはアドサーバーを独占提供しているので在庫状況を知り尽くしているし、その後の取引も全部一人で胴元をやっているので価格決定権があると言っていいし、自分のマージンも好きに線を引ける。
これはオークションと表現されているけど、実際の慣行は全然オークションなんかじゃないのだ。あからさまに代理して買う側、つまりアドテクが優位であり、パブリッシャは在庫が買い叩かれるのを待つだけである。さらにパブリッシャの立場を悪くする要因がある。それは世界中の暇人たちがネットサーフィンをして無数の低質な広告在庫を生み出していることである。この異様な供給過多と質の悪い在庫群のせいで値崩れが起きてしまうのだ。
では、この状況が何を引き起こすだろうか。例えば、代理店とアドテクスタックが広告費の7割を獲得した場合には3割の広告費しか本当のパワーを発揮しない。3割の価格の在庫は「キングオブレムナント」に投じられるはずだ。事情を知らない広告主はデジタル広告自体の効果を疑うし、パブリッシャは在庫を回すことに自信が持てなくなる。
商流の両端の広告主とパブリッシャは取引価格の推移を知ることはできない。つまり媒体(メディア)を見るユーザに価値を提供するパブリッシャと、そのマーケティング機会と引き換えに原資を出す広告主はそのあいだに挟まった中間者が、大した価値を生み出さずしてケーキを食べ散らかす。とても金融業界的な商売のあり方である。
言葉を替えればミドルマンが両端に対して情報の非対称性をフル活用することで、マーケット自体が萎縮してしまうとも言えるだろう。
これはマージンをめぐる競合でもある。広告代理店とアドテクが自分のマージンを最大化しようとすればするほど、実質的な広告予算は減っていきキャンペーンの結果が悪くなり、顧客がいなくなる。自己利益を最大化するために競い合ったり騙し合ったりする結果、不利益にたどり着くのだ。砂漠を超えた交易を繰り返す感じの商慣行と不透明な情報が、アドテクたちを罠にはめ続けるのだ。これは「お互いを滅亡まで追いやるまで続くポーカー」なのだ。
このバトル・ロワイヤルにも似た状況下で強いのはどういうプレイヤーだろうか。それは商流を一気通貫し胴元を担う独占者である。独占者は大きなマージンを取るが、それはバトル・ロワイヤルのコストよりも低く、取引と広告配信自体はしっかりコントロールされているのだ。プロプラエタリに管理されたお城の中のWalled Gardenは、オープンではあるものの百鬼夜行の「北斗の拳」の世界よりも居心地がいいのである。
つまり、あまたあるアドテク企業は脆弱性をそもそも秘めており、城壁を築いていくGoogleとFacebookの圧力がかかると壊れてしまった、と言えるかもしれない。
「だからデジタル広告はだめだ」と言うつもりは全くなく、アナログ広告にはアナログ広告の「特別な事情」が存在し、同様に広告主とパブリッシャが損をしているわけだ。人々はデジタルデバイスを好んでいるし、インターネットがもつ可能性はとても大きい。世の常だが人間が誤った行動をしているのだろう。皆自分だけが大儲けすることや生き残ることに執心している。
パブリッシャーの逆襲
ここからは少し蛇足だ。ポーカーゲームの中で、常に負けるのがパブリッシャーだった。アドテクには依存せず、ソーシャルを流通網にして、そこに広告を流して稼ぐぞ、というパブリッシャーの新しいビジネスモデルが勃興した。それが「ソーシャル依存型メディア」だ。日本ではこのビジネス形態の翻訳がかなり恣意的に行われ一部の人の都合で「分散型メディア」とハイプされた経緯がある。とても興味深い。ただ、分散型メディアはハイプと創作の産物なので一度忘れてほしい。
流通をソーシャルメディアに依存し、コンテンツ自体はソーシャル上での情報消費に最適化されたものを指す。収益化は複数ソーシャル上に展開する記事広告で賄う。BuzzFeedがその代表格で、BuzzFeedだけでなくこの類のパブリッシャには必ず出資し事業開発を手伝うNYのベンチャーキャピタルがあった。
そう言えばBuzzFeedのCEOのアイツにインタビューしていた。懐かしい。
ソーシャル型の台頭はモバイルの世界が生まれたからだ。モバイルで勢いに乗ったFacebookとは持ちつ持たれつだったと思うな。バイラルなんて表現される形で、一つのニュース記事が無数の人たちにシェアされまくる現象だったわけだ。これでフェイスブックは世界中ですごいトラフィックを生み出していた。「The dress」はその象徴的な存在というわけで。こういうお祭り騒ぎはFacebookにいないと体感できないので、たくさんの人がFacebookを訪れて長い時間を過ごしたんだ。
ユーザー獲得がサチってきたらソーシャル型の利用価値が落ちてきたんだろう。加えて最高設定のスロットマシーンのように「バイラル」を引き起こしまくるアルゴリズムのいろんな副作用が気になってきた。全く嘘で塗り固められた投稿だとか、暴力、性などに関する倫理を逸脱した動画だとか、もう本当にまずいものがものすごい勢いで流布していく様を中の人は見る羽目になってきたんだと思う。Facebookの中に突っ込まれるコンテンツの量は常軌を逸していて、無数のやばいものたちは多分コントロール不能に近い状態に陥っていたはずだ。
タイミングが悪く大統領選の季節が来て、パブリッシャが赤と青の主張をぶつけ合う場にされちゃあかなわんし、選挙関連法のアビューシブなコンテンツの流通について責任を問われるのもかなわんので、アルゴリズムは人と人をつなぐという方向に変えたんだと思うんだけど、結局ロシアの諜報のひととかに簡単にやられてしまっていたし、フェイクニュースがはびこった。
仮説として聞いてほしいが、群衆が一つのことについて興奮する選挙のようなシチュエーションで、選ぶべき選択肢がヒラリーかトランプか、EU残留か離脱かのような二択のときには、群衆のコントロールが容易なのかもしれない。二人の候補で争った2014年インドネシア大統領選挙のときもFacebookはヘイトスピーチのため池ようだったのを現地にいたぼくは記憶している。デマに基づいたヘイトはおびただしい速度で流布し、操作された世論調査期間がそのヘイトが効いているという調査結果を出していた。考えてみるとこういう問題は”民主主義”の歴史の頻出ケースであり、何もFacebookだけのせいではないのだ。それでも最近のスキャンダルはあまりにも社会へのダメージがでかすぎると思われる。
同時にビジネス的には、ソーシャル型パブリッシャや企業に課税する方針が進められた。Facebookがつまみをギュッとひねった結果、パブリッシャらはFacebook広告にお金を注ぎ込まないと自分たちのコンテンツが人の目に当たらなくなってしまった。かつての大当たり連発スロットマシーンはあなたのお金を無限に食べていく集金マシーンになったのだ。昔からよくある話である。BuzzFeedの評価額は2015年には15億ドルに達していたが、2016年から収益が目標を下回り、最近は嫌っていたプログラマティック広告に門戸を開くようになっている。他のソーシャル型も一時のゴールドラッシュが終わり、前述のNYが出資した企業群の評価額はシュリンクした(一部はうまく売り抜けたが)。
最後に
かなりかいつまんだが、ここまで読んでもらえば、アドテクがかなりわかっただろうし、もしかしたら、とても不思議に感じられているかもしれない。その感覚はかなり正しい。
ぼくはこのコンテクストのなかで新しいメディアを作ろうと思っている。米国ではフェイクニュースとドナルド・トランプの時代を迎えて「しっかりとした情報にお金を払おう」という傾向が出てきた。テック起業家がワシントンポストやタイムズなどを買収している(ロビーイングの意味合いのほうが強ういかもしれないが)。ぼくもネット広告の変遷や、フェイクニュース、ここには書かなかったビジネス上のどろどろとした人間模様などを経験するにつけ、ユーザーがコンテンツを消費するコストを広告主が一手に負担するのはあまりいい結果をうまないという結論に達した。
しっかりとした情報にお金を払ってもらうという形態を目指していく。先祖返りしたようだが、これが最もユーザーの便益を絶えざる改善で増やしていく手段である。広告事業に依存するとユーザーを裏切るタイミングが出てくる。お金をもらい、いいものを提供する。ゲームは簡単にしておいて損はない。
また高度化するマーケティングに一抹の不安を覚えている。ターゲティングの精度は上がっているけれど、広告はそもそも商品に関する客観性にかけた不確実な情報を流布する競争である。そこに世界最大級の企業たちが技術者をアサインするのは変な気がする。もっと世界をよくできる大きな可能性があり、そのためのガソリンを得るための一時的な手段が広告なだけだとぼくは信じている。人が取得する情報を向上させれば、人の行動はもっと有意義になるのではないだろうか。そのための手段を嘘つきだらけのアドテクガイたちが行うポーカーゲームに委ねるのは正しいとは思わないのだ。
追記
最近は日本でも「デジタルマーケティング」という言葉が定着してきている。アドテクはデジタルマーケティングのなかに極めて重要な領域だ。企業が有益なデータを取得し、外部の世界に「獲得」に向かうときには必ずアドテクのお世話になるのだ。日本語で「アドテク」と検索してその意味合いを調べることは止めたほうがいい。日本では狭い界隈でバズワード化し、さまざまな人がご都合主義の「翻訳」を当てていることが多い。おそらく日本語で正しい知識に行き当たることはない、と言っていい。
アドテクはその技術スタックの独特さと同時に極めて不透明な「スーパー不完全情報ゲーム」なので学習コストがバカ高い。「ある入力に対して決まった出力が望める」という認識に囚われた、受験勉強に最適化された日本型高学歴タイプがうまくその実力を発揮できないこともある世界である。ぼくはせっかく詳しくなってもそれを話し合う友だちがいなかった。これがインターネットエコノミーを動かすガソリンであるにもかかわらず。『Chaos Monkeys』の読書は興奮に満ちていて「説明しなくていい。もっと詳細を出してくれ!」という感じられたが、著者も詳細を出したらFacebookに訴えられるので人間ドラマなどをないまぜにしてうまい具合に物語に仕上げているのだろう。長いブログを読んでくれて感謝している。