「芸術家が作品を売って生計を立てる。これは通常のビジネスです。ところが、芸術と金銭を関連づけると、悪者扱いされてしまいがちです。『アイツは芸術を売りもの扱いにしている。すべてブランディングのエサにしているじゃないか』どこが悪いのでしょう。人間の欲求につながらなければ、絵なんて誰も楽しめません。絵画は紙や布に絵の具を乗せた痕跡です。痕跡自体に価値なんてありません。価値のないものに「人間の想像力をふくらませる」という価値が加えられているのです。つまり、芸術とは、想像力をふくらますための起爆剤が、いくつもしかけられていなければならないのです」。

これは村上隆の『芸術起業論』の一説です。村上隆の作品にはしっかりとしたシナリオがあります。これは、欧米の現代芸術のコンテクストと接続するように考え抜かれたものです。村上隆のプロジェクト・タイトルになった「リトルボーイ」は、いうまでもなく広島に投下した原爆の名前です。日本は、原爆に象徴されるショックによって去勢され、いつまでたっても大人になれない存在、というのが村上の認識であり、オタク文化のギミックのような一時期の彼の作品は「去勢された日本」の表象として説明されていました。

現代芸術の作品を購入する人たちは、欧米の富裕層であり、その人たちがお金を投じるために値する、ストーリーを作ることが重要になります。芸術作品の購入の動機には節税のような意味合いもありますが、購入した富豪が、夕食に招いた友人に作品を見せ、そのバックグラウンドを語り、富豪の知性や芸術性を示すための道具でないといけないのです。

「芸術家とは、昔からパトロンなしでは生きられない弱い存在です。冒険家と変わりません。コロンブスは夢を語りましたが、命を賭けなければならない社会的弱者でもありました。ただし、コロンブスの名が残ったように、芸術家の名が権威になることも起こりうるのですが、それはずっと先のことです。コロンブスがパトロンを見つけて航海に出かけたように、まずは弱者として生き抜かなければなりません。どう生き残るか。弱者である芸術家は、そのことを抜け目なく考えないといけません」。

もともと日本画で芸術キャリアを築いていた村上は、浮世絵や琳派など日本の伝統美術と戦後の日本のポップカルチャーの平面的な視覚表現に類似性や同質性を見出し、自らの作品の造りを「スーパーフラット」と形容しています。彼は、「スーパーフラット」は戦後の日本社会で発生した無階層的で一様な大衆文化をも指しているという説明をしており、それが、階級社会を背景とした西欧の芸術のコンテクストとは異質であることを、作品のマーケティングに大いに活用しています。

彼は、日本人が、日本という柵の中から外へ出て、勝ち抜くために必要なことをこのように記述しています。「ぼくはアメリカでは成功をおさめましたが、日本では敗残者に近いものでした。どちらかというと、もうそろそろ、アートをやめようかなぁと考えていました。ほとんど国外移民のような気持ちで渡米して、『やるしかない』と思っていたからこそ何とか勝てたような気がします。『かっこいいところに行きたくて海外に進出した人』は、海外での生き残り戦略の必死さに追いつけなくて負けてしまいます。日本でも自分のやりたいことはありましたが、現実的にまるで経済活動には結びつきませんでした。奨学金を受けて滞在したアメリカで『海外では受けそうだぞ』と試したものが当たったというのが現状です。アメリカで認められるまでの日本での敗北の記憶や『自分には何もないんだ……』という思いは、いまだにぼくの作品制作の大きな動機になっています」。

『芸術起業論』  村上隆 幻冬舎

"Takashi Murakami “Learning the Magic of Painting”" by BFLV is licensed under CC BY-NC 2.0