デジタルヘルスケアの約束された未来

デジタルヘルスケアの実装が進行している。ウェアラブルやスマホからのデータ取得が革新的であり、大規模データの有効活用は、機械学習(ML)アプローチの開発と展開によって可能になりつつある。

デジタルヘルスケアの約束された未来
Photo by Onur Binay on Unsplash

Appleは2020年10月、iPhone / iPod touchで医療記録をつける「Health Record」を導入した。これにより、ユーザーが自分の健康記録を視覚化し、保存することが容易になった。

また睡眠追跡機能にもアップデートが入り、Apple Watchを着用して入眠することで睡眠時間、心拍数、血中酸素濃度、呼吸数といったパラメーターを取得、従来の睡眠時間データとあわせてヘルスケアアプリに取り込まれるようになった。

このようなデバイスとソフトウェアの機能改善の裏側で、Appleと医療・研究機関はデータ駆動型の次世代医療を目指す努力を進めている。これらの試みは2019年に開始し、その規模を拡大している。

2021年1月、Appleとマサチューセッツ州ケンブリッジに拠点を置く神経学的治療法の会社バイオジェンは、Apple WatchとiPhoneが認知機能の健康状態をどのようにモニターできるかを分析する研究プロジェクトで提携した。この複数年にわたる観察研究は、2021年後半に開始され、様々な認知機能を持つ若年層や高齢者を含む参加者が登録されている。主な目的は、デジタルバイオマーカー(患者の治療計画を策定するために使用される生化学的データ)を開発し、認知機能の長期的なモニタリングやMCIの初期兆候の特定に役立てることだ。

2021年2月、AppleのAdeeti Ullal率いる研究者が、ボストンのマサチューセッツ総合病院およびマサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大学の科学者と協力して、Apple Watch内でパーキンソン病の症状を追跡するシステム「MM4PD」を設計したとする論文がScience Translational Medicine誌に掲載された。このシステムは、投薬の変更や脳深部刺激治療による症状の変化を識別し、投薬を怠った患者を検出し、投薬方法を変更することで利益を得られる参加者を認識することができた。

同じく3月、ハーバード大学T.H.チャン公衆衛生大学院のApple Women's Health Studyチームは、AppleのResearchアプリを通じて研究に参加した全米の様々な年齢や人種の1万人のコホートから寄せられた、女性とその月経症状に関する科学的予備データを公開した。この研究に参加する女性は、月経周期の記録やその他の健康データを提供し、関連する調査に回答した。

iPhoneとApple Watchは次世代医療のハブになる
デバイスとソフトウェアの機能改善の裏側で、Appleと医療・研究機関はデータ駆動型の次世代医療を目指す努力を進めている。

ウェアラブル、スマホが医療データ収集を容易に

医療従事者が病院のデータベースに電子カルテを入力するよりも、個人がスマートフォンやウェアラブルを使って生成する健康データの方が豊かになる時代が到来しようとしている。

ウェアラブルは、その普及率の高さと人体への近さから、運動量の増加や健康的な食生活への動機付けなど、ユーザーの健康状態の改善を目的とした説得力のあるコンテンツを配信するための理想的な手段となっている。

スマートフォンは全世界で60億人が使用しており、さらに次の10億人のユーザーを目前に控えている。心拍数やリズム、血中酸素濃度、呼吸数、心血管や代謝の状態を追跡する身体装着型のセンサーやスマートフォンのカメラ、さらにはデジタル症状チェッカーもそう遠くないはずだ。

すでにスマートフォン医療の可能性を実証する研究は存在する。例えば、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の循環器内科医であり、同学部の助教授のジェフリー・タイソンらの研究では、スマートフォンを用いた光電式容積脈波(赤外線を照射することにより、心拍数の変化を検出する)による糖尿病の有病率を容易に把握できる非侵襲的なデジタルバイオマーカーであることがわかっている。タイソンらは糖尿病の有病率を検出するディープニューラルネットワーク(DNN)を開発した。

医療システムが未発達で資金が不足している地域では、このようなデジタル版の医療が、従来の医師中心の医療では十分に対応できなかった人々にも行き渡る可能性がある。

例えば、2021年に結核は、世界保健機関(WHO)が「X線の読影に人間の代わりにソフトウェアプログラムを使用してもよい」という勧告を出すに値する初めての病状となった。結核は第三世界の病気だ。デジタルヘルスは現在、人口密度の高い中所得国に急速に浸透しつつある。これは、医療の需要と供給の間の大きなギャップ、準備の整っていない規制当局、豊富な4Gデータなどが後押ししている。

デジタルヘルスに利用できるオープンデータでは、スタートアップ企業や独立系開発者は多くの研究論文や革新的なソフトウェア製品を世に投入してきた。2016年以降、公的資金による取り組みにより、何十もの放射線科のオープンデータセットが利用できるようになった。その5年後には、米国食品医薬品局(FDA)が承認した150のAI放射線学製品があり、そのほとんどが業界の既存企業ではなくスタートアップ企業によって開発されている。

健康データは大規模に集約されたときに最も力を発揮する。しかし、健康データの個人の所有権とその使用に対する同意は不可侵である。この2つの原則を両立させるためには、個人が個人の健康データの使用に対する同意を明示的に提供したり、取り消したりできるようなデジタルヘルスツールが求められている。

Apple Women's Health Studyは、Researchアプリを通じて、様々なライフステージ、様々な人種、そして米国の全州・全地域の人々から、参加者アンケートを通じて強化された周期の追跡やその他の健康データを総合的に収集した。via Apple
Apple Women's Health Studyは、Researchアプリを通じて、様々なライフステージ、様々な人種、そして米国の全州・全地域の人々から、参加者アンケートを通じて強化された周期の追跡やその他の健康データを総合的に収集した。via Apple

インターネットでは、ユーザーが生成したデータのほとんどは、消費や商取引、エンゲージメントを促進するアルゴリズムのトレーニングに使用される。最近はこれらの社会への副作用(フェイク、陰謀論、ヘイト、依存症)が明らかになり問題視されている。そしてこのような利用法への許諾は事実上求められないまま、ユーザーの手のもとに渡っている。

一方、健康データは大きく異なり、世界の公益のために利用することができる。健康データは、伝染病の追跡や蔓延の防止、新薬や診断法の発見、健康で長生きするための医療研究の推進などに役立つ。このデータの活用は人類のためになるはずだ。

健康データの価値は著しく上昇している。例えば、最近、米国の約20の医療システムがTruvetaというデータ会社を設立し、2億ドルを調達して、それらの組み合わせた患者記録の価値を活用している。

あるいは、2018年には、製薬会社のロシュがFlatiron Healthの買収を通じて、米国のがん患者データを約20億ドルと値付けした。Flatironは、がん診療所のワークフローを改善するためのソフトウェアを開発し、そこから匿名化されたデータを集約して、製薬会社や研究機関と共有している。

Flatironの重要な資産は、多数のソースからデータを調達し、それを分析して意味のある提案を行う能力だ。Flatironは検査室、研究リポジトリ、支払者ネットワークなどのソースから、構造化および非構造化の腫瘍データを取得し、正規化する。その後、Flatironの分析エンジンがデータから関連性のある洞察を引き出し、電子カルテデータと組み合わせることで、リアルワールドデータを生成する。

なぜ20億ドルの値段がついたかと言うと、がんの治療法の発見や数十億ドルの節約につながるからだ。

臨床試験登録のうち望ましい結果が得られるのは3〜5%に過ぎず、大ヒット薬の開発には10年以上の年月と25〜30億ドルの投資が必要とされている。Flatironのプラットフォームは、ほぼ15種類のがんの症状に対して臨床試験に適した患者コホートを特定し、臨床試験登録を最適化するのに役立つ。 さらに、Flatironのデータが貴重なのは、この現実世界の証拠を用いて、FDAが重要な要件としている薬の有効性と有用性を評価できるからだ。 さらに、このデータは、臨床研究、臨床試験の迅速な進行、および(保険会社による)効果的な薬価設定に使用することができる。

要するに製薬会社はFlatiron Healthを利用することで、臨床試験にかかる費用を節約し、迅速な意思決定を行い、市場投入までの時間を短縮できる。 がん治療薬が収益の60%を占める製薬大手のロシュが、Flatiron Healthを買収したのはこのためである。

病院やクリニックはAI開発者にとって健康データの豊富な情報源だ。彼らが保有する画像や医療記録のデータベースは、機械学習アルゴリズムの格好の素材となる。これらの医療施設は通常、医療サービスを利用する条件である包括的な「研究利用」の規定を通じて、データの利用に対する患者の同意を求めている。

機械学習医療の拡大

ヘルスケアにおける大規模データの有効活用は、機械学習(ML)アプローチの開発と展開によって可能になった。MLにより複雑で非構造化、非正規化、非スケーリングのデータセットにおけるパターン、関連性、相関関係、因果関係を解明することが可能になりつつある。

MLツールの応用は、米国ではAffordable Care Act(2010年)とHealth Information Technology for Economic and Clinical Health Act(2009年)が成立した後、電子カルテ(EHR)が普及していることによっても補われており、最近では英国民保健サービス(NHS)でも限定的に採用されている。

胸部X線写真の読影アルゴリズム、マンモグラムからのがん検出、コンピュータ断層撮影の分析、磁気共鳴画像からの脳腫瘍の特定、ポジトロン断層撮影からのアルツハイマー病の発症予測など、医療分野における人工知能のさまざまな応用例が、急速に増加している。病理学、皮膚の癌病変の識別、網膜画像の解釈、不整脈の検出、さらには心電図からの高カリウム血症の識別などへの応用も示されている。さらに、AIは、大腸内視鏡検査からのポリープ検出、ゲノミクスの解釈の向上、顔の外見からの遺伝的疾患の特定、体外受精の成功率を最大限に高めるための胚の質の評価などにも役立っている。

GoogleのAI「Lymph Node Assistant(LYNA)」、転移性乳がんの検出精度で99%達成と主張されている。医師は診断をスキップし患者ケアに集中可能になるかもしれない。via Google
GoogleのAI「Lymph Node Assistant(LYNA)」、転移性乳がんの検出精度で99%達成と主張されている。医師は診断をスキップし患者ケアに集中可能になるかもしれない。via Google

EHRから収集された膨大な量のデータを分析することで、臨床的に関連する情報を抽出して診断評価を行うことができるだけでなく、集中治療への移行のためのリスクスコアをリアルタイムで提供したり、院内死亡率、再入院リスク、入院期間の延長、退院時の診断を予測したり、急性腎不全などの将来の悪化を予測したり、人工呼吸器の離脱や敗血症の管理などの意思決定戦略を改善したり、観察データから治療方針を学習したりすることができると期待されている。また、臨床ワークフローの改善を目的とした概念実証研究も行われており、転写紙からの意味情報の自動抽出、医師と患者の会話における発話の認識、病院予約への不参加リスクの予測、さらには医師と患者の診察内容の要約などがある。

AIツールは、患者が自らの健康管理に大きな役割を果たすことを支援し、プライマリーケアを行う医師が自信を持って様々な複雑な疾患を管理できるようにし、専門医が超人的な診断性能と疾患管理を提供することを可能にする。臨床医が感知できない新たな疾患のシグナルを検出することで、AIは既存のデータから新たな洞察を得ることができる。その例として、(がん細胞ではなく)間質細胞(上皮細胞の支持組織を構成する細胞の総称)を用いて乳がんの予後を予測するための新たな特徴を特定すること、眼底写真から心血管危険因子と性別を予測すること、心臓コンピュータ断層撮影から冠動脈の血流を推測すること、正常な洞調律時に取得した心電図から心房細動のある人を検出すること、網膜画像を用いて認知症の早期診断を支援することなどが挙げられる。

EHRの課題

しかし、機械学習手法の使用を困難にする独特の課題がある。その1つがEHRだ。例えば、EHRに含まれる疾患のラベル付けが不十分であること、疾患には複数の基礎的なエンドタイプ(疾患の背後にある分子病態)が含まれる可能性があることなどが挙げられる。

ガートナーの報告書によると、COVID19のパンデミックでは、「統合されたバーチャル・ケアのような新しい働き方への適応と拡張に関連するEHRの能力に大きなギャップがあることが明らかになった。それを補うために、大多数のプロバイダーはEHR以外のソリューションを採用して対応している」と書いている。

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参考文献

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  3. Landi, I., Glicksberg, B.S., Lee, HC. et al. Deep representation learning of electronic health records to unlock patient stratification at scale. npj Digit. Med. 3, 96 (2020). https://doi.org/10.1038/s41746-020-0301-z
  4. Kelly, C.J., Karthikesalingam, A., Suleyman, M. et al. Key challenges for delivering clinical impact with artificial intelligence. BMC Med 17, 195 (2019). https://doi.org/10.1186/s12916-019-1426-2
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