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スタートアップバブルの構造をめぐる洞察

『サルたちの狂宴』(アントニオ・ガルシア・マルティネス)は、著者がシリコンバレーでの自身の経験を綴った回想録です。スタートアップをやってみようと思ったら読んでおいて損はありません。

5 months ago

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『サルたちの狂宴』(アントニオ・ガルシア・マルティネス)は、著者がシリコンバレーでの自身の経験を綴った回想録です。上巻『シリコンバレー修業篇』はスタートアップを立ち上げ、そして売却するまでを扱っています。下巻『フェイスブック乱闘篇』は、筆者が売却後にFacebookに転職してから退職するまでを扱っています。

今回は上巻のスタートアップ立ち上げの書評です。下巻に関しては、別にブログを書いていますので参照ください。それは、2011年から2013年4月の間にFacebookがたどった経路と僕が2015年5月〜2017年9月にデジタルマーケティングの業界メディアの編集者の仕事を通じて知った知識を足し合わせた、アドテクの歴史をざっくり紐解いてみたものです。

著者のマルティネスは非常に「典型的な」経歴の持ち主です。彼は物理学の博士課程をドロップアウトし、ゴールドマン・サックスでクオンツを務め、2008年の金融危機の後、「金融業界がなくなるのではないか」とウォール街が意気消沈しているとき(実際、ゴールドマン・サックスも政府とウォーレン・バフェットの助け船を必要とした)、アドテクスタートアップに転じ、狂乱的な創業者の下で苦しみながら、職場の同僚とYコンビネーターに応募し、アクセラレーションプログラムを受けて、アドテクスタートアップを創業します。つまり、彼はずっと最もホットな場所にい続けているのです。その後もスタートアップをTwitterに売却すると、仲間と袂を分かち単身Facebookに移籍し、退職後は本書の執筆を通じて、物書きのキャリアを始め、最近はモバイルでのオンライン行動を測定するBranchに携わっています。

1990年代頃から、金融市場の機械化が次第に進捗し、ウォール街では、マルティネスのような物理学を修めた人材への需要が高まってきました。金融市場に対して計量的なアプローチをする人たちのことをクオンツと呼んでいます。その職種は最初のうちは昔ながらの金融業界人に敵視されたようですが、いまでは、株式市場は、トレーダーではなく、アルゴリズムとパッシブなファンドマネージャーによって運営されています。

このブログで説明していますが、アドテクの勃興を支えたのは、2007〜08年の世界金融危機で、ウォール街の優秀なソフトウェアエンジニアが失職し、金融市場で培われたノウハウが流入したことに起因します。アドテクの技術者たちは、金融市場のコンピュータ化を横目に見ながら、デジタル広告も同様の筋で発展させることにしました。「アイランド」に端を発するコンピューターによる電子取引、HFT業者の出し抜きを防ぐためのダークプールの設計は、一部のアドエクスチェンジの設計に応用されています。

マルティネスの経歴はこのような背景をそのままキャリアに転換したようなものなのです。彼は本書で「何をすべきかコンピュータに指示するものと、何をすべきかコンピュータに指示されるものに分かれる。ウォール街は単にそれを最初に感じていただけだ。この移行が次に金銭的にも技術的にも巨大なスケールで実現したのがインターネット広告の世界だった」と説明します。

エンジェル投資家との交渉の仕方も示唆されています。近年日本でも採用が進んでいるConvertible Equity(コンバーティブル・エクイティ)について、「本質的に会社が拡大するほどエンジェル投資家の持ち分は減ることになる。事業のリスクの高い段階で投資していることを反映していない。そこで登場するのが投資家の強い味方、上限額(キャップ)だ」とマルティネスは説明します。コンバーティブルエクイティは近年、日本でも活用が進んでいますが、シリコンバレーのようにまだベストプラクティスが確立していないようです。

「資金調達時には、株式に転換する価格を明確に定める必要がなく、バリュエーション(企業価値評価)をする必要がない」と説明されていますが、起業家側からみたとき、キャップは事実上のバリュエーションになりえるため、注意深く設定する必要があります。会計処理上、コンバーティブル・エクイティは将来株式を購入する権利を取得するオプションの一種であり、資産に計上されるため、債務に計上されるコンバーティブル・ノートに比べて扱いやすいと説明されます。しかし、双方が合意するのならば、普通株での取引のほうが、最もシンプルであり、リーガルコストを圧縮することができます。また、日本のケースでは、コンバーティブル・エクイティに付帯する条件がフェアではなく、投資家保護というよりも投資家の利得を増やすために設定する運用があるようです。

彼のYコンビネーターに関する記述はとても興味深いです。Yコンビネーターは2018年時点で育成・投資したスタートアップの時価総額が1000億ドルを超すという途方もない成功を収めています。それまでの投資家が、投資適格に値した企業への投資の可否を検討にしていましたが、Yコンビネーターは最初期のスタートアップと関わり、陥りがちな失敗の穴を塞ぎ、ゲームの構造を教えることで、促成栽培をするアプローチを取ったことが奏功しました。マルティネスが数ヶ月を過ごした2010年の段階ですでに確固たる評判と、他のVCへの交渉力を築いていたのです。

マルティネスは「スタートアップで勝負をしたい人」の必読書として『Founders at Work 33のスタートアップストーリー』(Jessica Livingston)を挙げています。大手企業に成長したスタートアップの創業者が、Yコンビネーターの共同創設者であり、ポール・グラハムの夫人であるLivingstonのインタビューに対し、その創業から成長までの経緯を語る内容です。Hotmailの創業者Sabeer Bhatiaは、とある投資家から受けた痛烈な打撃を数度に渡り受けたことを説明していたり、Paypal共同創業者のMax LevchinがElon Muskとの対立をほのめかしたりとざっくばらんな内容でおすすめです。

最初期のシリコンバレーのスタートアップの様子は、HBOの”Silicon Valley Season 1"で分かると言います。会社設立、事業計画、資本政策、アウトソーシング、PoC、Minimum Viable Product(MVP)等の過程を面白おかしく学ぶことができます。本書の主人公は株を平等に分け意思決定を難しくしてしまいますが、Silicon Valleyのリチャードはそうはしていないように見えます。本書では、チームが疲弊し、事業買収提案を飲まざるを得ない状況に陥りますが、リチャードは大企業からの買収提案を断るところから事業を開始しています。

本書の原題は”Chaos Monkeys: Obscene Fortune and Random Failure in Silicon Valley”で、Chaos Monkeyは、Netflix者が開発したクラウド技術です。これにより、クラウドのインスタンスをランダムにダウンさせることで、サービスに対し仮想的な障害を引き起こし、テストを行うことができます。キューバからの移民を両親にもつマルティネスは私生活を描写するときになると、表現のそこかしこにガルシア・マルケスやボルヘスらのような南米文学の趣が感じられ、そこも面白かったです。なにはともあれ、スタートアップをやってみようと思ったら読んでおいて損はありません。

Takushi Yoshida

Published 5 months ago